PERSONZファンのみなさん、こんにちは。
PERSONZは私にとって特別、思い入れのあるバンドです。なぜならPERSONZも今年、結成20周年を迎えますが、実はCKCも同じく20周年になります。過ぎてしまえばあっと言う間っですが、やはり長い20年。その中で売れてCKCからデュークさんや夢番地さんへ移られていったバンドも少なくありません。
例えばBOOWYやGO-BANGS、JAY WALK。といったところ。
PERSONZだけがデヴュー前から1度も裏切ることなくCKCとおつきあいしてきてくれたバンドです。
(注)CKCの代名詞のように言われるARBは87年6月の「ROCK OVER JAPAN」ツアーから。THE MODSは91年「TIES」からです。2バンドともそれまではデュークさんです。
(注)ROOSTERZは84年に小社が招聘するまでは来高はなし。後で夢番地さんの主催で松山公演のチケットが売り出されるもののヴォーカル大江慎也の病気により中止。結局、その後も小社となる。
さて、PERSONZ。PERSONZの売れ方も大変、印象的でした。
多くのバンドが売れる時、CMに使われたとか、TVドラマの主題歌になったとか、いわゆるタイアップにより売れるのですが、PERSONZだけは、そのような仕掛けも一切なく、ひたすら「良い楽曲」「良いライブ」だけを積み重ねて人気バンドとなったのです。
この時の様子はリアルタイムで見ていた者には深い感動を与えました。
当時、「電波新聞」という企業向けの新商品などの情報を掲載していた新聞にも「テイチクBAIDISレーベルがPERSONZで成功!!」と、かなり大きな記事が掲載されたのが象徴的でした。
(注)「Dear Friends」が浅野温子・西田ひかる(新人) 主演の「ママハハブギ」の主題歌に採用されるのは随分あと。同曲が収録されている「No More Tears」はそうしたタイアップとは無関係な状態で発売された。
ここまで読んでいただけただけでもPERSONZがいかに実力のあるバンドかが判ると思います。
さあ、それでは86年末からの長きおつきあいの歴史の思い出話を本日より始めさせていただきます。なお、この連載はPERSONZが活動を停止しない限り終了しません。
1++ PERSONZを知る!
86年夏頃。CKCの前身であるブティック100CLUBにインディーズ大好き少年の志水くんがPERSONZのミニデビューアルバム「Romantic Revolution」(もちろん塩化ビニール盤!)を持ってやって来ました。
志水「しゃーちょー。これからはパーソンズでえぇ。パーソンズ呼んでや〜」としつこく言います。
時代はジュネがオートモッドを率い。サディサッズが和製ヴァージンプルーンズのようなライブを繰り広げて人気のころ。ポジパン(ポジティブパンク)全盛でした。う〜ん。今さら中途半端なポップロックを聴かされてもな・・・と思いつつ、志水くんがあまりに熱心に言うのでとりあえずレコードに針を落とす。
うひゃーかっこいい!! 気持ちいい!爽快!
実は私は、あまりPOPなものが好きではない。だって世の中にはPOPがあふれすぎている。耳が甘くなるから。
だが、しかーし!PERSONZのPOPはかっこいいのだ。
ちょうど、この頃。売れ始めていたBOOWYもPOPだったがPERSONZはもっとエッジが効いていた。
はっきり言って売れてからのBOOWYはアレンジや演奏のクオリティは飛躍的に上がったが。ROCKぽさは急激にトーンダウンしたと思う。
でも、この新人バンドはがつーんとROCKな上、成熟しているのだ!
すごいよ。このバンドは!今風の言葉で言うと スーパークール だね。
この頃、新宿ロフト10周年ライブがありました(たしか新宿厚生年金だったと思う)。そのイベントのチラシにはARBを筆頭にシーナ&ロケッツ、アナーキーなどロフトの重鎮バンドがクレジットされていました。
その中に新人バンドのPERSONZが入っているのです。これはすごいなー。このバンドは東京では相当、評価されているんだなー。と当時は思いました。今から考えると、案外、お友達のりだっただけかもしれまんが・・・。いや、やっぱり実力がないと入れませんよね。
さて、PERSONZを四国へ招聘したいと考えましたが、相手はあの人気バンド ARB の所属するARBオフィス。この頃には私も少しは賢くなってまして、それなりのプロダクションは自社の大切なアーティストのイメージを大切にしますから、あまり実績のない無名のイベンターが突然電話しても、喜んでもらえないことを学んでいました。
そこで当時親しくしていた、めんたいビートブームで東京デビューを果たしたAというバンドのヴォーカリストに相談しました。
後でそれはジェラシーからだったと判明するのですが、彼は「うん。大手やからね。ギャラも高いしやめときなよ。俺たちを応援してくれてればいいよ」という答えでした。
こうして一端、PERSONZとの縁は切れたようになるのですが・・。
意外な!運命の電話がかかってくるのです!
2++ PERSONZ登場!
86年末。「ARBオフィスの鈴木と申します」。
なんと!向こうから電話がかかってきたのだ。うひゃー信じられない! 私はホント咄嗟に「PERSONZずっと注目していました。どうかよろしくお願いします!」と答えた。
ところが、何と!鈴木氏はPERSONZの件ではなく、ARBの来年の四国ツアーの相談でお電話を下さっていたのだった。信じられない!
ここからCKCとARBの関係が始まるのだが、この突然の電話は以下のような流れから来たものだった。
当時、私は「高知ストリートマガジンDO」というタウン誌に記事を書いていました。その中に、たいへんだったBOOWYの四国ツアーのレポートを書いていたのですが、その記事が掲載されていた同じ号にARBのインタビューが掲載されていた。そのため、このBOOWYの記事をARBオフィス側も記憶していてくれたそうだ。
さらに夏にはシーナ&ロケッツの四国ツアーを実施したため、ARBオフィスでは「もしかして、ここに新しい何かが生まれようとしているのではないか?」と改めてCKCに注目してくれていたのだった。
ちなみにARBに関しては、はじめての交渉では一度お断りしている。理由は当時のCKCはまだプロフェッショナルなイベンターではなく、そうとう趣味色の強いサークルのようなものだったため、ARBクラスの対応は無理だと考えたのと、3ヶ月かけて1コンサートが終わると次のバンドと交渉して・・というようなサイクルだったので、ARBが指定してきた日程が既に決定していたECHOESと隣接していて宣伝やチケット販売に自信がなかったからです。
しかし、結局は実施します。これがCKCがプロの階段をのぼり始めた瞬間だったのかもしれません。
ともかくPERSONZとのパイプは出来ました。
私はすぐにでもPERSONZに四国へ来てもらいたいと考えていました。そしてラッキーにも、当時、松山大街道にあったディスコ「ダンステリアイースター」のXmasイベントに東京の生バンドを呼びたいというオーダーがありました。これにPERSONZを入れることにしました。
前日には高知でのライブも決めました。ディスコパンダ。
今だったらキャラバンサライがありますが、この頃、キャラバンサライは我々の主催したスターリンでのこけらおとしの「ロックに会場を貸すと汚くなる」という強烈な印象からライブにはホールを貸してくれない時期だったのです。もっぱらパーティーやピアノ発表会の会場になってました。
そんなわけでディスコパンダ。
意外と困ったのは、会場だけでなく楽器のレンタルもそうでした。
ツアーとは異なるイレギュラーのスケジュールのため、PERSONZの使用する楽器を現地レンタルしないといけませんでした。
本田毅の使うギターアンプ JC−120 はライブのPAを発注した野市電気(現Nes)の藤原社長が「どうせ買うちょかんといかんもんやき」とわざわざ買ってくれました。
しかし藤田勉のドラムセットはタムやシンバルの多さに途方にくれました。結局、打開策として、きわめて近いドラムセットを持っている地元バンドに前座をしてもらい、それを借りるという形で乗り切りました。
高知空港へは、当時親しくさせていただいていた花屋「花ゆう」さんのワゴン車で出迎えに行きました。
はじめて会うPERSONZのメンバーの印象は、渡辺貢は東京の古着屋の店員。藤田勉はロングヘアの美少年で竹宮恵子の漫画に登場しそう。本田毅は今よりもっと幼くてかわいい男の子という感じでした。
もっとも、こちらも当時は若く26歳。さらにうちのお手伝いスタッフも16〜18歳という低年齢。
その日の打ち上げに向かう道すがら、JILLさんが「毅!ここのスタッフの中なら子どもに見えないね」と笑っていました。
「どうぞ、こちらにお乗り下さい」とワゴン車を開けたのですが、何とJILLさん「私は前に乗る」と助手席に乗り込んできました。
マネージャーの山村さんは「JILLはいつもそうなんだよね」と。
私はチャンスだと思い、この期待大の新人バンドのリーダー?に自分がいかにPERSONZにほれ込んでいるか! そしてCKCがROCKが好きな連中が集まって運営しているグループなんだ! と熱く語りました。
JILLさんはこちらの熱い思いを受け止めてくれました。
こちらの想いがPERSONZに届いた至福の時間でした。
3++ PERSONZ四国初ライブ!
ディスコパンダは横に長くステージの奥行きがないため、音の反響が激しくPAのバランスがとりづらくリハーサルは長引きました。
それでも、メンバー本人たちも私たちも、この超大物バンドの四国初ライブがどんなになるのか?期待と緊張でドキドキしていました。
何しろ今ほど打ち込みでサポートされていない時代です。レコードと実際のライブにとんでもない!差があるバンドも珍しくありません。レコードで聴いたJILLのあの伸びのあるハイトーンヴォイスは本物なのか? あの素晴しい演奏はどこまで再現されるのだろうか?
たぶん、メンバーの方でも請われて来たとはいえ自主制作盤を1枚出しただけの新人。はじめての土地でどれだけのお客さんが入るのか? どんなリアクションなのか? 不安だったと思います。
ライブは80人弱の動員でした。これは全くの新人としては成功でしょう。
オープニングアクトのBOOWYのコピーバンドも自分たちの出番が終わると客席に廻って、盛り上がってくれています。
PERSONZのライブは今と違って何と!!!「Dear Friends」が中盤にあるセットリストでした。
今では確実にアンコールが定位置となっているこの名曲が5曲目くらいに登場するのです。
ちなみに「Dear Friends」はデヴュー前から頭脳警察のパンタさんにも「良い曲だね」と言ってもらえたという、誰もが認める名曲です。
もしかしてメンバーにしてみると、自分たちをあまり知らないキッズに向けて、ライブから逃さないつもりで勝負曲を早めに持ってきたのかもしれません。
しかーし、ライブが終わると激しい「アンコール!」の声。しかも「Let's GO!」を演ってくれ〜という声もちらほら。
(注)後年、JILLさんのソロアルバムに入るあの「Let's GO!」です。
実はPERSONZを広めるために、事務所の許可をとって新宿ロフトでのライブテープを配布していたのです。その1曲目が「Let's GO!」だったのです。
この頃、CKCでは高校のお昼休みに「CKCのおすすめバンド」の新曲を流してもらうとかも、かなり広範囲に繰り広げていました。
それらの中で、もっともがつん!ときたのがPERSONZでした。
予想外のアンコールの声に(それもなれあいでなく本当に望まれて)、メンバーが大喜びで「Let's GO!」で再登場!
本田・渡辺コンビニコニコしながら観客の方にせりだしていくと、観客の方もぐわーと寄ってくる。
四国初ライブは大成功に終わるのでした。
一転。
翌日の松山ライブは、昨年の come alive 2003 でその呪縛から放たれるまでの、長い松山苦難のはじまりとなります。
ディスコのスペシャルイベントとして東京から生バンドをという安直な発想からのライブは、従業員のノルマによる充分な動員があったにもかかわらず、反応は鈍く、ただ無駄に時間が過ぎてゆくだけでした。
それでもマネージャーの山村さんは、「気にしなくていいよ。こうして呼んでもらえなかったら四国なんて後3年はかかると思っていたのに、昨日の高知は素晴しかったし。次のツアーでもよろしく」と言ってくれました。
高知ではPERSONZというかっこいいバンドの噂が広がり始めました。
PERSONZを教えてくれた志水くん。志水くんの親友でサザンデスカルトのコピーバンドをしている宗孝くん。ふたりはディスコパンダでのライブにしびれまくっていて、「しゃーちょー。次のパーソンズのライブには俺らも前座で出してよ。チケットがんがん売るき。絶対出してよー」。
彼らの読みでは PERSONZはすぐにオープニングアクトなどで出れないようなメジャーバンドになる。その時彼らは「俺たちPERSONZの前座演ったんだぜ」と自慢する。上手くゆけば上京してプロを目指すときの売り文句に出来る。ということなのだ。
2度目の高知ライブは翌年87年4月。2枚目のミニアルバム「POWER-PASSION」の発売に合わせたツアー。
前回のライブの評判と彼ら2バンドの努力に助けられ、2度目の高知は早くも!高知県民文化ホール(グリーン) で実施した。
高知県民文化ホール(グリーン) はキャパ500P。ステイタス的には東京でいうところの渋谷公会堂といったところ。そこで前座付きとは言えメジャーデヴュー前のバンドがライブを行うのは前代未聞のことでした。
実際、CKC20年の歴史の中でもPERSONZ以外では実現していない。動員数は257人!
この時のことを後にメンバーが「大槻ケンジのオールナイトニッポン」に出演した際話すと、大槻は「つまり高知へ行ったらいきなり氷室京介さまだったのが、松山へ行ったら西条秀樹だったということすかー」と茶化していた。
PERSONZのキレのある素晴しいライブと、まだ知られていない大物バンドの発見に観客は大満足となった。
それくらいPERSONZもCKCも若くて元気一杯でした。
4++ PERSONZメジャーデヴュー!
とうとうPERSONZのメジャーデビューが決定しました。但し、テイチクのBAIDISレーベルなんて聞いたことないような会社からです。
初め、PERSONZはメンバーの年齢が高いことを理由に、どこのレコード会社にも断られた経緯がありました。
今では笑い話のような話ですが、当時はROCK BANDとは言え芸能人のような見方をされていましたから、遅いデヴューは、そのままそのバンドの賞味期限が少ない、という解釈のもと、お金のかかる新人売り出しは行われないことが当たり前だったのです。
そこで、ARBオフィスは「仕方ないので自主制作盤で実績を作ってから逆にスカウトが来るのを待つ」という戦略をとっていました。
自主制作で出した「Romantic Revolution」「POWER PASSION」の流通は、当時最大のインディーズレーベル キャプテンレコード(「宝島」のレーベル。後に「バンドやろうぜ」につながる)からでした。これは判る。とんがりキッズに届けるにはこのレーベルから出すことが大切でしたから。
それにしても凄い自信というか先見の明と言うのでしょうか? ARBオフィスでは、流通はキャプテンレコードに任しましたが、レーベルはPERSONZのためにHEADS−Uレーベルという自社レーベルを作っていました。それは、PERSONZが売れた時に、誰かが勝手に旧作を「あのPERSONZの新人時代!」などと販売することを防ぐためだったそうです。もう、事務所も完全に「売れる!」と信じているんですよ。
勿論それは正しかったわけですが、それにしても何故にテイチク? 演歌の? 答えは「大きなところへ入って5番目になるよりも、小さなところの1番を選んだ」とのことでした。う〜ん。この選択は正しいのだろうか?
ちなみにBAIDISレーベルの発足時の所属アーティストは、PERSONZの他は、SION、KATES ブルートニック(井上富雄・木原龍太郎をメインとしたバンドでオリジナルラブやスカパラの流れにつながる。売れなかったのが悔しい! すごく良いバンドでした)、コレクターズ、途中から戸川純&ヤプーズというメンツでした。
ともかく、私としては、東京での動きとかぜーんぜん関係なく、任せてもらった四国内でがんがん売ってやろうと燃えまくっていました。
当然、会場は高知県民文化ホール(グリーン)! しかもワンマン!
86年10月。PERSONZの四国初上陸から1年を待たずしてホールでワンマン。ごめん、ECHOES早くも追いついてしまいました(但し高知限定)。ごめん、GO−BANGS勝負にならないとこまできてます(高知限定ですが)。とにかくここからPERSONZの快進撃がスタートするのですが(もちろん全国区で)、この時期の四国の突出ぶりはもの凄いものがあったようでした。
実際、渡辺・藤田コンビとの同級生にして、先にインディーズで売れたリアクションの斉藤は、当時、高松クラブハウス(現MTRを主宰されている網さんが店長でした)というライブハウスに出演した際、東京では自分が勝ってるつもりだったのに、四国で見るPERSONZのポスターに掲載されている会場のクラスに愕然として「あいつら、いつの間にこんなに売れてたの!」と驚いていました。
さて、2度目のホールライブ。動員は310人!
1回目の県民文化でのライブは、ライブハウスから突然不慣れな広いステージに投げ出され動きの小ささが気になったPERSONZでしたが、今回は少し良くなっていました。もちろん、この時点では全国ツアーの中で唯一高知だけがホールだったわけですから、ステージアクションがさまになってくるのは「WONDERFUL MEMORIES」ツアーまで待たなくてはなりません。
それでも、イキオイのあるバンドのステージというものは何かしらぐいぐい引き込まれるものです。これは今を否定するわけではありませんが、私はこの夜の「Midnight Teenage」のキレの良さは最高だったと思います。
そうそう、このツアーからPAの方も専属オペレーターが付きます。四元さんと言って「いちご白書」にでも出てきそうな学生ぽい方でした。彼にはこっそりツアースタッフの心情とかも教えてもらう関係になります。やはり専属オペレーターが付くと必要に応じてエフェクトもかけてもらえますから、よりレコードに近い完成度の高い音を提供できるわけですよね。彼のオーダーによりPAシステムもより高度なものが必要となり、高知の音響会社では対応出来なくなりました。そして徳島のうさぎやという会社に依頼しました。お互い持ちつ持たれつは世の常ではありますが、より良いものを作ろうとした時、片方の成長が著しく片方を追い抜いてしまった時は、一端別れることも仕方ないと思います。
しかし、私のこの考え方は田舎の高知では浮いていたようで、この件で私は多くの方から非難を受けます。
バンドは観客が多くなり、ホールのランクが上がるたびにスタッフが増えてゆくものです。そうでなくては広い会場で狭い会場と同じ感動を与えられなくなるのです。もっとも感動のタイプは変わってゆきますが・・・
すごいよ! PERSONZ。かっこいいよ。やったーという胸のすくようなライブをやってくれました。
コンサート終了後はロビーでのサイン会です。これはROOSTERZがしていたのを見た私が、事務所に強く要請してしてもらっていました。
とにかく、PERSONZは曲がいいのですから、なるだけ沢山の人に聴いてもらいたいわけです。それにはレコードを買ってもらうのが一番いいわけですから、レコード買ってくれたらメンバーがその場でサイン、というのをお願いしました。
大阪から立会いに来てましたテイチクの宣伝担当の方たちは「いや〜これはええなあ。このバンドはどこでもこれやってくれるのかな」と喜んでました。
今考えるとROCKぽくないことこの上ないのですが、メンバーが私を信頼してくれて応じてくれたのだと思います。ごめんよ。
(補足)この年、もう1つ超大物バンドがデビューしています。ブルーハーツ。CKCではこのPERSONZのライブに先立つこと半年前、87年5月にチャオホール(現・ルーマプラザ5F)で主催しています。こちらもまたPERSONZに負けずイキオイがありました。こちらは私の仕掛けなどなにも関係なく売れたと思います。それが証拠にCKCは評価されなかったようで次回のツアーから外されます。しかもDUKEさんが作られたTVスポットでは「ブルーハーツ四国初上陸!」とナレーションされていました。しかし、コンサート当日覗かせてもらったら、前説でDUKEさんの社員、梅木くんが出てきて注意事項を話した上で「今から高知では正しくは2度目のブルーハーツのライブがあります」と話してくれていました。
5++ レコーディングにお邪魔する
熱狂の高知ワンマンでのライブも終了して、PERSONZは凄い! という噂は小気味良いくらいのスピードで広がってゆきました。
当時、帯屋町にあった1番大きなレコード店、川村レコード店の1F店頭のビデオでは、常にPERSONZが流されていました。もちろん、こちらも偵察員?を放って常時流されているかをチェックしていました。流れていなかったりすると、次回に店舗に出向いた際に「お願い」をするわけです。
さて、この年の年末近くCKC岡本は東京へ「売り込み」に出かけます。あまりお金のないCKCにしてみると、やりくりしてのやっとの上京費用でした。それは今もですが・・
もちろん、一部のシーンでは四国に出来たこの新しいイベント会社は注目を集めていましたが、世間的には「噂は聞いてるけど知らない人」状態なわけです。私は不慣れな東京の道を迷いながらてくてくあるき続けました。
(注)この時の日記のようなものは会報の号外として製作。題名は「東京ROCKレポート」。これはこの後、主催した 有頂天 のKERAさんにたいへん面白がっていただいて、私が後年、たま のマネージャーをしていた期間、仲良く仕事させていただく関係を作ってくれた。
しかし、ARBオフィスを訪ねる時のみは、既に、PERSONZの全国初のホール公演の成功とARBの高知県民文化ホール(オレンジ) への復活、数年ぶりの松山公演の仕掛け人として、充分な遇され方をしました。
マネージャーの山村さんが「あさっては時間あるかな? PERSONZが山中湖のスタジオでレコーディングしているんだけど一緒に行こうよ」と誘ってくださいました。
(注)「RomanEsque-HeartAche」
まだ、この仕事を始めて間もない私をそんな場所に招待してくれるとは! 今から考えても、いかにPERSONZに信頼されていたかが良く判る光栄な思い出です。
(注)よく「ザ・ベストテン」とかで黒柳徹子さんとかが「今週の第5位、○○さんたちは山中湖のスタジオの方でレコーディング中です」とかやってましたが、あれは山中湖スタジオというものがあるわけでなく、山中湖周辺にレコーディング対応のスタジオが点在しており、単なる地名としての紹介。ちなみに交通費・宿泊費を考えると都内のレコーディングスタジオの方が安かったりする。しかし、都内のスタジオは稼働率が高く、あるバンドが昼間使った後に別のバンドが入るのは当然。従って、毎回、楽器のセッティングからはじめてチューニング・サウンドチェックをする手間がかかる。PERSONZはここにきて早くも快適なレコーディング環境が得られる立場に来ていた。ということです。
山村さんとは途中、カーショップでタイヤチェーンを買いました。ビデオによる取り付け方法の解説を2度見て、ふたりして山中湖へ。
道路からスタジオ兼ペンションに入る下りの道は、雪があまり踏まれてないせいもあって、ちょっとジェットコースターのような降り方でした。
入って行くとログハウス風の外観とは異なって、中はホテルのロビーのようでした。快適な空調と絨毯のウェイティングルーム、そしてガラスの向こうはレコーディングルームです。私は外の風景との落差、そしてその豪華さに驚きました。
ちょうど「Welcome To This Time」のレコーディングの最中でした。
本田毅のキーボードの様なギターの音色があまりにキーボードのような音色なのでそれを伝えると、JILLさんは「そうでしょう」と笑い。本田くん本人は「やったね」とうれしそう。どうやら、どれだけギターでキーボードのような音を出せるかの挑戦をしている模様。
ところで、別棟では ウィラード がRHをしていました。ウィラードとCKCは7月に公演中止というトラブルが発生していた。バンドと彼らの所属していた大手プロダクション、シンコーミュージックが対立。突然の退職により我々とのスケジュールは果たされないままとなり、チケットの払い戻しという不名誉な結果が残りました。
ちなみに、この時、シンコーミュージック側は「替わりに、これから絶対売れる良いバンドを入れますからどうでしょうか?」と申し出てきた。
しかし、そのバンドはGIRLS BANDだったので、女性ヴォーカルバンドとしては PERSONZ こそNO1! と決めていた私はその申し出を断ってしまう。えっ? なんてバンドを断ったのかって? それはプリンセスプリンセスでーす。
そんなわけで今、時間を越えてJILLさんと加奈子さんがユニット組んでるのが不思議です。
この時、ウィラード側と話し合いを持って、新しい事務所が決まってツアーをすることになったら連絡をもらうことなどを決めました。
いかにもペンションという感じの夕食が出されました。実は私はこの頃ペンションというものに泊まるのが初めてでした。そんなわけで夜はビジネスホテルで過ごすようなつもりでコンビニで週刊誌を買って来たりしていました。「週間モーニング」。本田毅に話すと「うそ! モーニング読みたかったんだよ。お借りしていいですかー」。そこで、私が取りに行こうとすると「いや、置き場所教えてくれたら取りに行かせますから」とローディーくんに指示する姿にはスターの貫禄が出ていました。
夜のはじまりのうちはその日録音した曲をカセットに落として、ビデオとオーディオセットのある部屋で何度も聴きかえしては笑って「う〜ん。今のはやはりどうしょうもなくしつこいよね」とか雑談ともミィーティングともつかぬ会話をしていました。私は不慣れな会話の中で、黙って座っていました。
やがて、時間とともに、何故かアースウィンド&ファイアーのビデオを流しながら音を消して、それに Welcome To を流して、その画面と音楽の偶然のシンクロを笑っていました。一番笑っていたのはドラムの藤田くんでした。何故はかは今も判りません。
それにしてもEW&Fのこの曲は、今も球場クラスのツアーをしているあのユニットがパクリ疑惑で注目されました。やはりベーシックなリズムの良さがあるのでしょうね。
リズムと言えば、ベースの渡辺貢はARBオフィスの藤井社長にサンジのベースについて尋ねていました。
「俺たち新潟にいたころ、ARBのサンジさんのベースってカッコイイて思っていたんですけど、実際どうだったんですか?」
藤井「上手いプレイヤーではなかったよ。なにしろシドヴィシャスに憧れて練習しないのもパンクだ、みたいになっていたからね。でも、不思議とライブでは、あの音が上手くはまってカッコよく聴こえたんだよね」
翌朝は快晴。クラブハウスに朝食に行く。
壁には荻野目ちゃんやラフィンノーズなどのここでのポラロイド写真が貼られている。ふーん。ここに彼らも来たんだー。そして、いつか誰かが「ここにPERSONZが来たんだ!」と言うのだろう。
レコーディング棟から外を見ると、富士山が見えていた。
山村さんが「岡本くん、はじめて見る富士山の感想はどう?」と尋ねた。私はアドリブが効かない人であります。いつも、事前に頭の中でシュミレーションしてから現場に赴きます。この時も、突然の話題に「はあ、讃岐富士より立派ですね」という何とも間抜けな返事をして全員に笑われます。
昼前にスタジオを後にする時、JILLさんは歌入れの最中でした。
ガラスの向こう側に手を振りました。録音の合間にミキシングルームから、真田さんが「岡本さん帰ります」とマイクで中のメンバーに伝えてくれました。JILLさんが手を振り返してくれました。
だから、もしかすると「Welcome To This Time」の歌声の一部はJILLさんが私に手を振りながら歌ってくれたものかも知れません。
(注)真田さんは当時のBAIDISレーベルのPERSONZ担当のディレクター。その後、東芝EMIの社長になります。私はそんなこと知らずに東芝に電話して普通に「真田さん。お願いします」と呼び出したことがあります。あるバンドをメジャーデヴィューさせようと画策して、渋谷クアトロのライブを見に来てもらおうとしました。でも親切でしたよ。懐かしそうに喜んでくれました。本人は来てくれませんでしたが、スカウト担当の方を寄こしてくれました。
6++ 涙のWelcome To This Time Tour
87年4月。レコーディングにお邪魔させてもらったミニアルバム「RomanEsque-Heart Ache」の発売に併せてのツアーが実施された。人気アーティストの場合、アルバム発売と同時にすぐツアーが始まるものなのだが、この頃のPERSONZは、高知での人気はさておき実際にはメジャーではフルアルバム1枚、そしてこの2月にでたミニアルバムが2枚目という状態。事務所側は慎重にファンに曲が馴染んでからツアーに出るよう考えてあえて2ヶ月、間隔を置いたのでした。
再び、松山市民会館(中ホール)。
マネージャー山村さんからは「当分、松山は辞めておきましょう」と反対されたのですが、私はPERSONZ四国制覇のため、とりあえず。高知からも近く、かつ何人かの協力者のいる松山を重点地区としていた。
(注)この頃は、まだMTR網さんは高松在住。愛媛での協力者はテレビ愛媛アナウンサーの土居氏、ROOSTEZマネージャーの石飛さんからROCK好きのTVマンがいると紹介された。そのラインから人脈を拡げた。香川はTV局も多く(当時で既に東京と全く同じ局数だった)タウン誌も多く、街も広く、その為、宣伝展開が難しかった。徳島は高知から片道4時間かかる上、街の規模は高知と同様なのだが、フェリーで渡れば大阪に近いため、少し興味がある人たちは非常に簡単に大阪まで行ってしまう、という難しさがあったからだ。
そんなわけで松山。ちなみにプリンセスプリンセスも四国は松山からスタートしてました。3〜4ヶ月に1回のペースできてましたね。すごかったな〜。
松山市民会館での動員は160人ほどでした。翌日の高知県民文化ホール(グリーン) がSOLD OUTしている状態にはほど遠いが、この時、私は「やった。ついに松山でもここまできた」と満足していました。
今から考えると、まるで採算度外視の多大な労力をかけて集まってもらったお客さんたち。本当にありがたかったです。
松山初公演のステージを与えてくれたダンステリアイースターの店長や私たちが松山でごく初期の段階から手伝ってくれていた西山さんたちが、CKCが力を入れている新人バンドPERSONZの松山での初ホール公演を観にきてくれました。
ステージでは「夏に出る私たちのー2枚目のアルバムに入る曲です」と「BE HAPPY」が唄われました。この曲はアルバム発売後は、レコードのアレンジを再現するためPERSONZにしては珍しく打ち込みのリズムが流されてそれに生演奏をかぶせてゆくのですが、このツアーではまだ、そうしたアレンジが固まってなかったため、あの冒頭のリズムも生のベースとドラムだけで始まるものでした。
私は正直、「DEAR FRIENDS」や「Hollywood Movie Star」などのキャッチーさはないなー、というのが感想でした。
それを察したのか作曲者の渡辺貢は低姿勢な言葉遣いで「あのー岡本さん。BE HAPPYってライブではまだいまいちなんですけど、レコーディングだとなかなか良い曲に仕上がりそうなんで、次のライブで、もう1回聴いてみてくださいね」と言われました。
充分な松山での再スタートだったと思います。
しかし、会場を出る時に再び嫌な出来事に遭遇します。
この夜、隣の大ホールでは、新進気鋭のお笑いコンビ、とんねるずのライブが行われていました。そして会場を出ようとする私の運転するワゴン車に出待ちをしていたファンが集まって来ました。そして、それを見た とんねるずのファンがワゴン車を取り囲んで車が動かせなくなりました。しかし、彼らのほとんどが「なんだーとんねるずじゃないじゃないか」と言って車から去って行きました。JILLさんと渡辺貢は気難しそうな顔をして黙りこくってます。藤田くんにいたっては「岡本さん〜。俺もう嫌だよ〜」と車のシートの下に隠れてしまいました。判るよ。その気持ち。
松山市民会館(中ホール) には出口は1箇所しかなく、私の取ったコースは避けられないものでした。アドリブの苦手な、気の効いたセリフの言えない私ですが、この時は自分の愛するバンドが侮辱を受けたことに心底腹を立てていました。
私は言いました。「気にすることないですよ。あんなお笑いなんて。すぐにPERSONZの方が大きな会場でライブするようなります。こっちの方が断然。本物でカッコイイですから」
私の言葉に気遣いの本田毅はニコニコしながら「今夜の岡本さん。熱いですね」と言ってくれました。全員大笑い。車の中はたちまち和やかなムードになりました。
さあ。翌日は高知です。この時はワゴン車が調達出来なかったので、普通乗用車2台での移動でした。今から考えるとレンタカーでも手配しろよ、とでも思うのですが、本当にこの頃は手造り、節約して頑張ろうという気持ちで一杯でした。今もその気持ちは持ってますが、少しはイベンター的な考え方もするようなったので、流石にこれはないですね。まあ。
車の話はさておき、当時のツアークラスとしては上等のホテル。JILLさんのお気に入りの松山サンルートホテルに泊まったにもかかわらず、朝からJILLさんは不機嫌です。何かあったのかな? と思うのですが、そこはJILLさんも大人ですから身内ではない私とかに対してはいつもと変わらぬ態度で接してくれます。ツアー中にはメンバー間で色々ありますから、余計な詮索を私の立場でしてもどうしようもありませんので、こちらもいつもと同じ態度で車を出発させました。
当時は四国にはまだ高速道路がありませんでしたから、R33号線を走っての高知入りです。1時間ほど走った後、飲み物を買うため車を停車させたのですが、なんと! 風邪をひいてしまい歌を唄える状態ではないのです。こちらが声をかけると無理してにこやかに返事してくれていただけでした。心配する私に対して渡辺貢はこう言いました。「仕方ないよ。自分が風邪をひいたんだから。どうしようもないよ。岡本さんが心配してくれなくてもいいんですよ」。これはたぶん私に気を遣っての言葉だと解釈しましたが、もしかするとツアー中の健康管理が出来てない自分たちのメンバーに厳しく伝えたのかもしれない? と考えました。
チケットはSOLD OUT。今まで頑張ってきて、遂にここまで来たのに。今夜はじめてPERSONZを見る人たちはレコードとの違いすぎるJILLの声をどう思うのだろう? そして、今までのファンも。私は暗い気持ちで高知までの道を運転しました。
JILLさんはステージに立ちました。がらがらの声で。そして泣いていました。上手く唄えないところは本田・渡辺がコーラスをとってサポートします。いや、これは今なら感動的なエピソードですけど、忘れないで下さい。この頃のPERSONZはまだまだ新人なんですから!
私の憂鬱はまだありました。私はPERSONZをより多くの人たちに知らしめるため地元CATVを説得して5カメラも入れての特別番組の撮影まで入れていたのです。この撮影にはかなりの費用がかかっています。今更、OAを中止してくれとはお願い出来ません。
ロビーではテイチク大阪営業所から立会いで来ている営業の今里さんがいました。彼は営業職には珍しい誠意のある表情で「でも、すごいですよ。普通なら公演中止にするところでしょう」と言いました。
判るよ。それは! でも私はイベンターなんです。あなたたちは全国区で判断して、四国のどこかでは風邪ひいてたいへんだったけど全体に良いツアーだったよ、と云うような会話で済むかも知れないけれど私にとっては今夜の高知ライブは特別な夜なのです。
少し話はズレますが、イベンターは基本的に受身の立場です。ですからそれだけにこちらが預けたステージ上で誠意のないライブをするようなバンドは許せません。
かつて広島出身でやや人気の出掛ったバンドをはじめて招聘した時、本番中、彼らはステージ上で「今日のこいつらはわかってないな」という態度をとったことがありました。当時のPERSONZ同様、一部の地域ではホール公演になり、これからの土地ではまだライブハウスという状況なのです。ツアーは前日までホールだったようでそれなりに馴染みのファンがいる状態が続いていました。しかしはじめての高知では観客もまだ反応が悪いのは仕方ありません。それを何とかして自分たちに引っぱってゆくのがプロのはず。それをこいつらはライブの途中で「高知の観客を捨てた」のです。
もちろん、私は彼らを許しませんでした。彼らが高知に来ることは2度とありませんでした。
もちろん、この夜のPERSONZはベストを尽くしてくれました。それは認めます。しかし、この夜の不出来を取り返すためには大ヒットをとばしてくれなければどうしようもないだろう。
そして実際この夜の観客たちは「PERSONZてレコードで聴くバンドでしょ。ライブバンドではないよね」という評判を撒き散らしてくれました。悔しい。
では、次回! いよいよ高松・土佐清水にエリアを拡げてのCAN'T STOP THE LOVE TOUR 編!
イキオイに乗るPERSONZのおまぬけで楽しいエピソード満載をお楽しみに!
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