ARB  2004.12.05(日) 高知 BAY5 SQUARE_ARB LIVE "LOCUS" 2004
ARB 一言で感想を言わせてもらうと、「疾走感」のあるライブだったなーって感じかな。
今回のツアーは再開後のメンバーによる初ライブ盤「LOCUS」に併せたツアーということで、終盤の4曲を省くと全て現メンバーになってからの選曲だった。
これはねー、いつかやらなければならないライブだったと思うんですよ。やっぱりバンドは「走り続けていなければ死んでしまう」のですから。
今までは、一旦活動休止していたことをファンに気遣って、ファンサービスとしてのライブをしていたんだと思います。もちろん、現メンバーでの歴代の名曲のアレンジ違いを楽しむ面白さは体験出来ましたが。
でも、ファンサービスも度を越すと「ファンに媚びる」になるわけで。やっぱり誰もが「ファンに媚びるARB」なんか見たくないわけですから。
しかし、ここで今回のような現メンバーになってからの曲で勝負するライブを持って来た。っていうのは、バンドが生きてる証拠ではないでしょうか?

++ 会場入りまでの車中での会話・・

幸也さんが各地でレコード店廻りをしている話題に続いて・・
岡本「幸也さんに教えてもらいたいことがあったんですよ。PILのキースレビンがジョンライドンとやりあって(ジョンが没にしようとした)マスターテープを持ち逃げしてブートで出したアルバム・・」
幸也「コマーシャルゾーンでしょ! 持ってるの?!」
岡本「そうなんですよ。しかも未開封なんですけど。これってどれくらいの価値があるんでしょうね?」
幸也「くれ! 頼む。くれよ! 駄目なら売って! いや売ってください」
岡本「あのー、とりあえず、いくらくらいの価値なんでしょうか?」
幸也「そーだなー、シールドだから、それは価値は高いよ。でもなー、今どきアナログ盤を買う人あまりいないからなー」
たつのすけ「それって、自分が安く売ってもらいたいから牽制してるんじゃないの?(笑)」
マネージャー「すごいよなー、アーティストに商売しているイベンターなんて普通居ないよね(笑)」
岡本「いや、ほら僕は幸也さんに相場を尋ねてるだけですから(苦笑)」
幸也「いや。俺、本気で買うよ。いくらなら売ってくれる?」
 (中略〜 相場より安く譲ることで決着する)
幸也「う〜ん、今回のツアー中で最大の掘り出し物だなー。多分、これだけはCDになってないんだよな。これでPILは全部揃ったな (満足そうな表情)」

ARB++ ライブ・・

画像を見てもらうと判ると思いますが・・・わおー凄い人! 満員の熱気!
予想を越えた動員に予定時間内に入場が終わらなかったため、開演が15分遅れる。すみません!
県外からのARBファンの方だけでなく、高知は横に長いので、例えば土佐清水市からのお客さんは車で片道4時間強もかかるのだ。帰りを心配する気持ちはよーく解ります。胸が痛いです。

メンバー登場! いつもながらの地鳴りのような歓声。

前半、徳島で学校の先生からもらった手紙から作った「RESPECT THE NIGHT」を「四国で生まれた曲です」と言って歌う。
そして、それに続いて名曲の誉れ高い「プレゼント」が始まる。
途中の間奏パートでは、たつのすけさんが坂本龍一の「戦場のメリークリスマス」をインサートして弾いてみせる。季節感たっぷりの演出に思わずニヤリ。
前回はキースジャレットの「ケルンコンサート」でしたね。ちなみに今回もたつのすけさん、リハーサルではケルンコンサートを弾いてくれてました。前回のレポートを読んでくれたのかな? たつのすけさんの名曲インサートコーナーは高知ライブの新しい楽しみのひとつかも。たつのすけさん! 次回も楽しみにしてます!

EBIさんソロパートと言えば、幸也さんのソロの音色が「ドュルティコラムみたいでしたねー」と感想を伝えると「そうそうドュルティコラムの○○○○(すみません。判りませんでした)あたりが好きなんだよ」とのことでした。ARBでも幸也さんの好きな感じの爆発の曲が出来たらいいなー。

幸也さんライブはがんがん進んで行きます。
今回の数少ないオールドナンバーは「喝!」。
たつのすけさんがピアニカを吹きながらステージ前で激しいパフォーマンスを繰り広げる。ほんとうに、たつのすけさん、良い感じでサポートしてくれてますよね。
本編終わりは「KAZA-BANA」。
そうそう!これで終わりを締めくくらないといかんよね。などとニヤニヤします。

で、アンコールでは高知名物「よさこい節」を凌さんがアカペラで歌います。
そういえば、「LOCUS」のボーナス映像にROCK OVER SHIKOKU 高知県夜須町公民館ホールでの「よさこい節」が使用されてるのですが、やはりクレジット無しでしたね。
ちなみに凌さん、毎回、楽屋で歌詞チェックをします。もちろん歌唱指導は私です。すみません(笑)。

そして、「ダディーズ・シューズ」。
最前列で見ていた家族の中に少年を発見した凌さんが、ステージに上がって来るように誘う。
すると彼は! 親の躾の素晴らしさ! 何とサビの部分を完璧に歌い上げたのです。
かわいい声での「Stepping Slipping it's my Daddy's shoes」にメンバーも観客も一同大爆笑。ライブならではの楽しさですよね。

会場を後にする車の中でM&Iカンパニーの見城さんに「さっきの少年にしてもさ、高知のARBファンの層の厚さって凄いよね。ここで観るARBは格別だよね」との言葉をいただく。
これはねー、イベンター冥利に尽きる言葉です。うれしいです。高知のファンも喜びます。

++ 打ち上げ・・

岡本「EBIさん。今回は「○○(高知)サイコー!(叫)」が無かったですね。あれやってくれないとEBIさんじゃないですよ(笑)」
EBI「あれはもう辞めました(笑)」
EBIさん相変わらず海老が苦手みたいでした。

凌さん&KEITHさんKEITHさんとはレポートにUPするような類いの会話はあまりしませんでした。
でも、あえて書くなら。KEITHさんのやさしさが以前よりはるかに増したような気がします。以前はそのヤクザを思わせる(笑)ルックス同様、寡黙にして人を寄せ付けないムードがあったのですが、おだやかなやさしさで接してくれるんです。

人は変わる。バンドも変わる。
だから、幸也さんの魅力を爆発させたROCK。
KEITHさんのやさしさを石橋凌が受けとめて作るラブソング。
EBIさんのレゲエテイストな曲。とかとか。
これから出会うだろうARBの新曲たちが一層楽しみになったライブでした。

CAT KIDS CLUB 岡本

 


 
ARB  2004.1.25(日) 高知県民文化ホール(オレンジ)_ARB 25th ANNIVERSARY "Days of ARB"
arb_k5 今回のライブを聴いて(残念ながら仕事柄、ずっとは観れないのです)感じたことや、ほんの少し、メンバーさんとの会話などをレポートします。

う〜ん。どこから書いたら良いのか難しいですが・・・とりあえず、思ったのは「継続は力なり」です。バンドを長く続けていると、状況の良い時もあれば悪い時もありますよ。それは仕方ないこと。
で、今のARBはバンドとしてはとても良い状態。ライブ終了後に凌さんから「どうだった?」と尋ねられて、正直に「再結成からのメンバーが、バンドになったなと思いました」と答えました。後でパンフレット見たら同じようなことが書かれていました。みんな思いは同じなんだな〜。

凌さん そして、そのバンドとしてのグルーヴ感が初期の曲もコピーでなく、きちんと今のARBとしてきっちり聴かせてくれる。腹に入る満足感とは、こういうことですよね。2時間40分がダレない。良いライブでした。

ライブの内容については、きっとファンの方の方が詳しくレポートしてくれるでしょうから、ここでは走りながら書きます。
まず、今回は25年の歴史を見せるというテーマがあったわけですが、そうしたことから「教会通りのR&R」など、小社がARBに係わるようになって18年間で初めて(高知の)ライブで演奏した曲もありました。たぶん、初期ファンにとってはこれだけでも涙ものだったことでしょう。

1stアンコールは高知名物「よさこい節」のアカペラから。
いつからか高知でのアンコールに唄われるようなった、よさこい節。ちなみにライブでは1番と3番の歌詞を歌っています。歌唱指導は私、CKC岡本です。
楽屋番(ケータリング)の女の子からは「岡本さん、よく本物の歌手相手に照れず歌えますね」とからかわれますが。ほら、私はきちんと歌わないと凌さんが間違えて憶えると困りますから。私は仕事に真面目なだけです(笑)。

キースさん 1stアンコールのラストは「AFTER'45」。ここで! たぶん高知スペシャルアレンジがありました!!! 前回の「HEY!WAR」ツアーのR・Hでたつのすけさんが独りで弾きはじめたのはキースジャレットの「ケルンコンサート」の頭の部分でした。普段、JAZZとか聴かない私ですが、この歴史的名盤だけは中学生時代級友の薦めで聴いて今も愛聴している曲です。思わず楽屋に戻った、たつのすけさんに「最高です!」を連発。
たつのすけさんはじめメンバーさんはそのことを憶えててくれ、今回「AFTER'45」の導入部分に使ってくれたのです。

そして2ndアンコール。
ARBの切り文字が降りてくると「BOYS&GIRLS」からスタートするノリノリのアップテンポな曲が始まる。

ホールツアーならではの照明の豪華さを堪能します。今回のツアーでは、後方にイントレ(鉄骨資材)を組んでいる。そこに何灯もの照明を吊るしているので、いつもは絶対照明がない空間でライトが光っているのは新鮮で豪華! ちなみに照明チーフはライトウェーブ鈴木氏。私がこの人は上手い! と納得する人です。前回のツアーでは、それまでPVのイメージを踏襲してセピアっぽいニュースフィルムの色のイメージで作られることの多かった「BAD NEWS」を、何と! 歌詞のままに真っ赤な空襲の夜景にぐるぐる回転するサーチライト、という演出を見せてくれた鈴木氏。
今回は歌を前に出すために退いた、溜め気味の照明だったと思うのは私だけでしょうか?

幸也さん&ebiさん ところで、今回のライブで今さらですが、石橋凌の唄が良かった〜と思った方は多いと思います。私はかつての解散の際、小社の会報に「時代は変わり、ワークソングは日本人のためではなく、アジアからの出稼ぎに来る人たちにしか必要なくなった。きっと石橋凌は唄うべきテーマを見失ったのだろう。誰に唄うべきなのか? だから、この解散は自然なのだ」といったようなことを書いた。ところが、今や残念なことに唄うべきテーマが溢れているのだ。いや、べつにARBが世直しバンドだということではない。ただ、再び共に悩み、共に生きてゆくために大切なことを考えていかなければならない時代が来ていることを、仲間と一緒に確認しているのだ。だからこそ、今の石橋凌の唄は力があるのだと思う。

++ バックステージ・・

ライブが終わって、スタッフが機材を片付けている間、メンバーは休息&軽い食事。
スタッフが終了するのが、およそ1時間後なので、お店に入ってから料理を注文していると間に合わなくなる。ライブが始まると、そこから終演時間を逆算して、何時くらいに到着するかを告げる。そして、再び終演後。会場を出る前に後、何分で到着します。と電話。それに合わせて料理が作られていく。

今回は日曜日だったのでお店選びも難しかった。美味しくて、静かであることももちろん。
そして裏通りの静かなお店へ。今回、ある方のご紹介で特別に定休日を返上していただいての開店。お店の方のサービスで予算以上の料理の数々。

たつのすけさんは「すごいな〜、今日は! 写真撮っていいですか?」とぱちり。
「でも、この写真、家内には見せられないな〜。あなたばかり美味しいもの食べて! って責められるからなー」

ebiさん 伊勢海老の活け造りの登場! ebiさんが顔をしかめる。動いている海老が怖いようす。少しわきにどけるが、まだ苦しそう。

凌さんは、気を遣って話しかけてはくれるが、流石に長時間ライブが終了した後だけにお疲れの様子。
こちらも気を遣って、席を移動。今回からのアルバム発売を担当されているM&Iカンパニーの見城さんが「秋田と高知は見ておいた方が良いよ。と言われて来ました」とわざわざ来てくださっているのでご挨拶に出向く。

高知はどうでしたか?
「いや〜、ファン層の広がり方が理想的ですね。当時に聴いていた人もいれば、その世代に影響を受けた若い世代まで」

ARBとは今までどんなおつきあいだったのですか?
「ファンでした。KEITHとかは昔から知ってたんですけど、仕事としてのおつきあいは初めてです」
見城さんは、このHPも観に来てくださってるそうで「高知は熱いですよね」とのことでした。

一方、話題は、「なぜARBは高知で強いのか?」に移る。
今回は、やはり片岡さん率いる「高知ARBこじゃんと好きクラブ」他の、ファンによる熱心なちらし配り、ポスター貼り、手売りのよる部分が大きいことをebiさんに伝える。
実は片岡さんたちは、昨年のツアー高知前夜に飲みに出かけた途中でebiさんと出会う。彼らが熱心なファンであることを知ったebiさんが親切な対応をしてくれたことをきっかけに「もっと応援します!」と結成されたのがこの「高知ARBこじゃんと好きクラブ」なのだ。

KEITH「ebiくんも、たまには良いことするね(笑)」

そういえば、今回、発見したのですが、ebiさん人気はなかなかのもの。ユニコーンのebiでなくARBのebiのソロを観たがっているファンも少なくない様子。そのことを伝えると、小さな頭を振りながら「いやいや」と謙遜してましたが・・・どうなんでしょう? ebiソロライブ。

arb_k6 徳島へ向けてのスタッフの準備も整ったとの電話。メンバーも店を出る身繕いを始める。お店の方からサインを依頼される。バスドライバーの山丸さんからは高速は速度規制があるものの何とか使えるとの連絡。
バスが出迎えにくる。私も一瞬乗り込み、舞台監督を含めスタッフの労をねぎらった後、食事中にも、会場へ残してきたCKCスタッフからのミスの報告を受けていたのでそれを詫びる。

メンバーが最高のライブを出来るようにスタッフと協力してバックステージを造っていかなくてはならないのだが、今のCKCには及ばないところも多いのも現実。
でもでも、そんなCKCだからこそ「応援しちゃろう」と何人もの方が助けてくれているのも現実。ありがとう。ありがと。

CAT KIDS CLUB 岡本

 


 
SUNSHINE REGGAE FESTA 2K4 in 四国  2004.8.29(日) 瀬戸大橋記念公園マリンドーム
arb_k5 8月29日(日) 瀬戸大橋記念公園マリンドームの感想を一言で言うと「いい感じ」な一日だったなー。というところだろうか。
瀬戸大橋の真下という抜群のロケーション。これは写真を見ていただくと一発なんですが・・・昼間の瀬戸の海、夜のライトアップされた瀬戸大橋などを時間の移ろいと共に楽しめました。
ステージは通常のロックコンサートとは異なり、ステージ左右にスピーカーではなく、ステージセンターとステージ下手(客席から左手)という変型の設置方法。これが、なんというか「コンサート」とは違う感じを作っていて、会場はまさに野外クラブの様相なんだな。

早い時間に開場して、だらだらとDJ TIMEが続いて、その間、テントでビールを飲んだり、フードを食べたり、友だちとだべったり。
途中、私も給油のために外出したのだが、会場へ戻る道すがら「(レゲエの客は)匂いに集まって来るんだよ」という言葉の通り、たくさんの車が会場を目指しているのを目撃した。
当日は台風が近づいている状況にも拘わらず、レゲエな連中には全く関係無いようで、思わず若いっていいなーなどと思いました。
もうねーじじいですから。さすがに、こういう会場で自分の居場所を気にしてカッコ悪く業界ぶる年齢は卒業してますから、もーねー普通に台風が近づいているから、涼しい風の吹いてくる瀬戸大橋記念公園をのんびり楽しみました。

DJイベントを初体験すると「こりゃ!曲を聴かせるのか?! しゃべるのか?! どっちかはっきりしろ!」と思ったりするわけですが・・・
フレッシュエアーを体験してますからね。かなりレゲエのノリが身体に入ってきましたよ。
でねー。ゲストで登場したHEMO&MOOFIREのHEMOさん。本番前に少し話したのですが、たいへんクレバーでクール! 驚きました。
彼らの置かれている位置は、所謂、芸能界的なアイドルやベストテンを賑やかすロックバンドなどのような商業的成功とは離れたところではある。
しかしそれでもワールドワイドな活動から見えている視点の確かさや礼儀正しさに、思わずこちらがたじろいてしまう程でした。
フレッシュエアーの時にも思ったが、このジャパニーズレゲエシーンから何かが生まれるかもしれない。
そして、今はその過渡期なので、まだまだデンジャラスな不良な匂いにも満ちている。
今、このシーンは面白い。
昔の東京ROCKERシーンのような匂いをさせている。

最後にパフォーマンスについて書いておくと、HEMO&MOOFIREのステージングはよくショーアップ化されていた。
途中のボーカル曲の時にはせっかく広いステージなんだから、もっと真ん中へ出て来て唄っても良かったのではないだろうか?
でも英語と日本語を交互に操り、実に盛り上げるMCだった。立派です。
ダンサーJUNKOの、バックを担当した際の脇への回り方も「自分たちの位置」を判っているクレバーさが伝わるステージでした。
そうそうJUNKOのダンスはどうだったか? って。
海外で活躍する日本人て、なんか日本人離れしてくる。といつも思うのですが・・・JUNKOさんも何かデカイんですよ。
小柄なブラジル人て感じでした。まっあれだけ激しいダンスをするということは身体もでかくないと保たないのでしょうねー。
さすがに世界のJUNKOだけあって、登場するや否や、テントコーナーで飲食していた連中も雪崩れのようにステージに集まって来て熱気が凄かったです。ショーそのものは充分に及第点のゆくものでしたが、エモーショナルな爆発はこの夜のステージからは感じることは出来ませんでした。
BOOGIE MANさんの名誉のために書いておきますが、JUNKOの準備が遅れて、時間調整のために「次の曲で最後や」と言いながら何度も追加をしなくてはならなくなって、やや纏まりを欠いたセレクトになってしまったBOOGIE MANは気の毒でした。

そして、今回のイベントのホストクルーであるWING FLOORのご苦労と、その彼らの登場で踊ってくれた沢山のみなさんにリスペクトです。
楽しかったです。また、来年あるといいなー。ブレス!

CAT KIDS CLUB 岡本

 


 
THE MODS  2003.9.20(土) 高知キャラバンサライ & 2003.9.21(日) 松山サロンキティ
MODS 2年ぶりのTHE MODSの四国上陸。新レーベル ROCKAHOLICになってから初めての高知である。
メンバー到着。何と! 北里さんは楽屋入りの段階からステージ同様にヘアスタイルをビシッと決めている。もちろん、革ジャン。
軽い食事をとった後、リハーサルが始まる。ドラム、ベース、そしてギターの音が順番に重ねられてゆく。

私たち現地スタッフは、その間、ロビーで今夜、配布するチラシの折込作業をする。私はその作業をしながら、もうすぐ公開される陣内孝則の初監督映画「ロッカーズ」のことを考えている。
陣内孝則の在籍したバンド、ロッカーズの福岡時代のものがたりなのだが。誰かが厳密にあの時代を再現するならば 森山達也 を登場させなくてはならないだろう。と言っていたのを思い出したのだ。
森山達也の役を誰かが演じるって想像出来ないですよね。森山達也は森山達也以外を寄せ付けないものをデビュー時から持ち続けているからこそ我々を魅了しつづけているのだから・・。
すると、陣内監督も、それが判っているから登場させなかったんだろうか?

時刻は開場時間に近づいてくる。意外に早くから並んでいるファンは少ない。mikiさんなどは、かつてTHE MODSが、あまりにも人気でアイドルのようにクラス中がTHE MODSファンだったころ。あまのじゃくで、わざと無視していたくらいだった。と言う。私は少し年代が上なんで、そうなのかと思いつつ、かつてのROCK KIDSたちも仕事や育児に追われてるんだよな〜などと客足の遅さを分析してみたりする。

それにしても、かつて日本にはROCKという音楽もバンドもなかったわけで。ROCKは若者のもの、はオーディエンスにしても演奏者にとっても、ある年齢がきたら卒業するものだった。

MODSライブが始まる。圧倒的なカッコよさ! 現役とか貫禄とかでなく。最前線のカッコよさである。この日のライブが少しでも盛り上がるようにと、全くTHE MODSを知らない友人を連れて来てくれた@3910さんによると、友人曰く「日本にこんなカッコいいバンドがいたなんて!」と感嘆。搬入を手伝ってくれた20歳の尾崎くんは途中、ロビー交代の際、少しだけライブを観て「すごい!カッコイイ。こんなバンドになりたい」と言ってくれた。ライブの内容についてはのら猫ロックさんのHPなどで読まれたほうが、凄いパワーで書かれていますから良いと思います。

そうそう。THE MODSが日本で初めて「ROCKを卒業しないカッコよさ」を体現してくれたバンドではないだろうか?
私は何年か前からTHE MODSをリスペクトを込めて「日本のローリングストーンズ」だと思っている。

打ち上げの席上。森山さんがメンバーに最近読んでいるらしいキースリチャーズのギターテクニカルについての本に書かれていることを、本当にうれしそうに話している。
「難しい技術のとこはね。わからん!(笑) けどね、キースの考え方とか。うーん。そうか、やっぱり。よし俺も! ってなるよ」
ほかにも、たまたまTVで流れていた新人バンドのビデオを見ながら「ステージ衣装がT-SHRTSとか信じられんね」と話したり。この日、あまり運営面で上手く出来なかった私に「お金も大事だよね。でも、ほらROCKだから。確かに無駄だな〜と思う経費もかかっているよ。でもROCKだから。カッコよくないと困る部分もあるだよ」

MODS高知・松山ともに沢山のお客さんが入ってくれて、大変な盛り上がりのうちに終了した。現時点では文句なしの成功だと思う。もちろん、これで満足してはいけない。「ROCKは卒業するものではない」の言葉の通り、かつてのファンも、そして未だこんなカッコいいバンドを知らない人たちに。もっともっと集まってもらって再び高知2DAYS・松山2DAYSが出来るようなれたら。
そして日本中のファンが高知で観るTHE MODSはすごい!となって全国から集まってくれるようなれば・・・

「高知と松山のファンに向けて? そうね。とても良い感じなんだけど、初期・中期の曲は充分、盛り上がってくれてるけど。もう少し新曲も勉強しておくように(笑)。そうすると、君たちは俺たちの中で5本の指に入るようになるからね(笑)」

CAT KIDS CLUB 岡本

 


 
ARB  ARB in 四国物語・・・連載開始!
ARB ARBについては今までもタウン誌やCKCの会報(「GO GO CATS」現在は廃刊)などでその時々のことを書き散らしてきた。
でも、こうしてコラムを連載してみるというのは初めての試みだし、上手く書けるか?ということも甚だ自信がない。

というのも、BOOWYや、あるいはブルーハーツなどは、私がこうした世界(音楽ビジネス)に入ってからデビューをしたバンドである。だから、ある程度は仕事としてクールに彼らを見ること出来る。
ところが、ARBとなるとそうもいかないのだ。何しろパームスビル地下にあったDUKEでのチケット発売のために、前夜から階段に並んだこともあるのだから。「なんか、今度のARBのツアーてストラングラーズのジャン ジャック バーネルがベースで参加するがやって」!!!
正直、ストラングラーズがどのくらい人気があるのか?よく判らなかったが、ピストルズやクラッシュと同じ空間にいる外人ROCKERが日本を代表するROCK BAND ARBのサポートとしてやってくるんだ! わくわくした。

1++ プロローグ

80年代はじめの高知では、ARBはどうしようもないほど大スターだった。有線では1日に何度も何度も「クレイジーラブ」や「トラブルドキッズ」が流れてくる上、極めつけは高知のARBことロレンスというARBのコピーバンドが大人気となり、地元のライブハウスBUZZでは当時のアマチュアとしては異例の前売券のプレイガイド発売! チケット代1000円!(普通は500円でした)で約150枚が毎回売り切れていたのだ! ちなみにロレンスはグッドライフカンパニーという、高知でBIGIやメルローズ、JUNなどを販売するチェーン店からシングル盤まで出している。(このグッドライフカンパニーが「ファイティング80s」を高知でスポンサーとして放送していた。)

ご存知の方も多いと思うがCKCの前身はブティックである。ROBOTやジョンソンズと云ったロンドンものを扱うROCKの匂いがぷんぷんするような店だった。「宝島」や「ロンドンブック」あるいは「i-D」にかぶれた私たちは、随分、高いこと出して買った海賊版のセックスピストルズのビデオを店頭で流しているだけで四国中からROCK少年たちが集まってきてくれた。

やがて、熱に浮かれた私たちは大手イベンターが招聘しない「東京ROCKERS(今で言うインディーズシーン)」を自分たちでプロモートしよう! ということになる。もちろんブティックでのチケット独占販売?による宣伝効果も考えていたのだが・・・。
(ここらへんのCKC初期の物語は、当時の会報の号外として出した「東京ROCKレポート」に詳しい。これは今読んでもかなり面白いので、機会があればUPしたいと考えてます。)

さて、そんな初期CKCに、思ってもいなかった大物ARBから四国ツアーの打診が来たのは86年。石橋凌が小泉今日子と共演した「ボクの女に手をだすな」が公開される直前だった。

地元タウン誌「ストリートマガジンDO」に執筆した「BOOWY四国ツアー顛末記」が掲載された号に、前月に高知で行われたARBのインタビューも出ていたことと、シーナ&ロケッツのマネージャー氏からCKCのことを知ってくれたのだった。その時の気持ちというのは、心臓がばくばくというのと、何か気持ちの良い高揚感だった。


では、次回! いよいよメンバー登場! お楽しみに!

 
 
PERSONZ  PERSONZとCKC・・・連載開始!
PERSONZ PERSONZファンのみなさん、こんにちは。
PERSONZは私にとって特別、思い入れのあるバンドです。なぜならPERSONZも今年、結成20周年を迎えますが、実はCKCも同じく20周年になります。過ぎてしまえばあっと言う間っですが、やはり長い20年。その中で売れてCKCからデュークさんや夢番地さんへ移られていったバンドも少なくありません。
例えばBOOWYやGO-BANGS、JAY WALK。といったところ。
PERSONZだけがデヴュー前から1度も裏切ることなくCKCとおつきあいしてきてくれたバンドです。
(注)CKCの代名詞のように言われるARBは87年6月の「ROCK OVER JAPAN」ツアーから。THE MODSは91年「TIES」からです。2バンドともそれまではデュークさんです。
(注)ROOSTERZは84年に小社が招聘するまでは来高はなし。後で夢番地さんの主催で松山公演のチケットが売り出されるもののヴォーカル大江慎也の病気により中止。結局、その後も小社となる。

さて、PERSONZ。PERSONZの売れ方も大変、印象的でした。
多くのバンドが売れる時、CMに使われたとか、TVドラマの主題歌になったとか、いわゆるタイアップにより売れるのですが、PERSONZだけは、そのような仕掛けも一切なく、ひたすら「良い楽曲」「良いライブ」だけを積み重ねて人気バンドとなったのです。

この時の様子はリアルタイムで見ていた者には深い感動を与えました。
当時、「電波新聞」という企業向けの新商品などの情報を掲載していた新聞にも「テイチクBAIDISレーベルがPERSONZで成功!!」と、かなり大きな記事が掲載されたのが象徴的でした。
(注)「Dear Friends」が浅野温子・西田ひかる(新人) 主演の「ママハハブギ」の主題歌に採用されるのは随分あと。同曲が収録されている「No More Tears」はそうしたタイアップとは無関係な状態で発売された。

ここまで読んでいただけただけでもPERSONZがいかに実力のあるバンドかが判ると思います。

さあ、それでは86年末からの長きおつきあいの歴史の思い出話を本日より始めさせていただきます。なお、この連載はPERSONZが活動を停止しない限り終了しません。

1++ PERSONZを知る!

86年夏頃。CKCの前身であるブティック100CLUBにインディーズ大好き少年の志水くんがPERSONZのミニデビューアルバム「Romantic Revolution」(もちろん塩化ビニール盤!)を持ってやって来ました。

志水「しゃーちょー。これからはパーソンズでえぇ。パーソンズ呼んでや〜」としつこく言います。

時代はジュネがオートモッドを率い。サディサッズが和製ヴァージンプルーンズのようなライブを繰り広げて人気のころ。ポジパン(ポジティブパンク)全盛でした。う〜ん。今さら中途半端なポップロックを聴かされてもな・・・と思いつつ、志水くんがあまりに熱心に言うのでとりあえずレコードに針を落とす。

うひゃーかっこいい!! 気持ちいい!爽快!

実は私は、あまりPOPなものが好きではない。だって世の中にはPOPがあふれすぎている。耳が甘くなるから。
だが、しかーし!PERSONZのPOPはかっこいいのだ。

ちょうど、この頃。売れ始めていたBOOWYもPOPだったがPERSONZはもっとエッジが効いていた。
はっきり言って売れてからのBOOWYはアレンジや演奏のクオリティは飛躍的に上がったが。ROCKぽさは急激にトーンダウンしたと思う。

でも、この新人バンドはがつーんとROCKな上、成熟しているのだ!
すごいよ。このバンドは!今風の言葉で言うと スーパークール だね。

この頃、新宿ロフト10周年ライブがありました(たしか新宿厚生年金だったと思う)。そのイベントのチラシにはARBを筆頭にシーナ&ロケッツ、アナーキーなどロフトの重鎮バンドがクレジットされていました。
その中に新人バンドのPERSONZが入っているのです。これはすごいなー。このバンドは東京では相当、評価されているんだなー。と当時は思いました。今から考えると、案外、お友達のりだっただけかもしれまんが・・・。いや、やっぱり実力がないと入れませんよね。

さて、PERSONZを四国へ招聘したいと考えましたが、相手はあの人気バンド ARB の所属するARBオフィス。この頃には私も少しは賢くなってまして、それなりのプロダクションは自社の大切なアーティストのイメージを大切にしますから、あまり実績のない無名のイベンターが突然電話しても、喜んでもらえないことを学んでいました。

そこで当時親しくしていた、めんたいビートブームで東京デビューを果たしたAというバンドのヴォーカリストに相談しました。
後でそれはジェラシーからだったと判明するのですが、彼は「うん。大手やからね。ギャラも高いしやめときなよ。俺たちを応援してくれてればいいよ」という答えでした。

こうして一端、PERSONZとの縁は切れたようになるのですが・・。
意外な!運命の電話がかかってくるのです!

2++ PERSONZ登場!

86年末。「ARBオフィスの鈴木と申します」。
なんと!向こうから電話がかかってきたのだ。うひゃー信じられない! 私はホント咄嗟に「PERSONZずっと注目していました。どうかよろしくお願いします!」と答えた。

ところが、何と!鈴木氏はPERSONZの件ではなく、ARBの来年の四国ツアーの相談でお電話を下さっていたのだった。信じられない!
ここからCKCとARBの関係が始まるのだが、この突然の電話は以下のような流れから来たものだった。

当時、私は「高知ストリートマガジンDO」というタウン誌に記事を書いていました。その中に、たいへんだったBOOWYの四国ツアーのレポートを書いていたのですが、その記事が掲載されていた同じ号にARBのインタビューが掲載されていた。そのため、このBOOWYの記事をARBオフィス側も記憶していてくれたそうだ。
さらに夏にはシーナ&ロケッツの四国ツアーを実施したため、ARBオフィスでは「もしかして、ここに新しい何かが生まれようとしているのではないか?」と改めてCKCに注目してくれていたのだった。

ちなみにARBに関しては、はじめての交渉では一度お断りしている。理由は当時のCKCはまだプロフェッショナルなイベンターではなく、そうとう趣味色の強いサークルのようなものだったため、ARBクラスの対応は無理だと考えたのと、3ヶ月かけて1コンサートが終わると次のバンドと交渉して・・というようなサイクルだったので、ARBが指定してきた日程が既に決定していたECHOESと隣接していて宣伝やチケット販売に自信がなかったからです。
しかし、結局は実施します。これがCKCがプロの階段をのぼり始めた瞬間だったのかもしれません。

ともかくPERSONZとのパイプは出来ました。
私はすぐにでもPERSONZに四国へ来てもらいたいと考えていました。そしてラッキーにも、当時、松山大街道にあったディスコ「ダンステリアイースター」のXmasイベントに東京の生バンドを呼びたいというオーダーがありました。これにPERSONZを入れることにしました。

前日には高知でのライブも決めました。ディスコパンダ。
今だったらキャラバンサライがありますが、この頃、キャラバンサライは我々の主催したスターリンでのこけらおとしの「ロックに会場を貸すと汚くなる」という強烈な印象からライブにはホールを貸してくれない時期だったのです。もっぱらパーティーやピアノ発表会の会場になってました。
そんなわけでディスコパンダ。

意外と困ったのは、会場だけでなく楽器のレンタルもそうでした。
ツアーとは異なるイレギュラーのスケジュールのため、PERSONZの使用する楽器を現地レンタルしないといけませんでした。

本田毅の使うギターアンプ JC−120 はライブのPAを発注した野市電気(現Nes)の藤原社長が「どうせ買うちょかんといかんもんやき」とわざわざ買ってくれました。
しかし藤田勉のドラムセットはタムやシンバルの多さに途方にくれました。結局、打開策として、きわめて近いドラムセットを持っている地元バンドに前座をしてもらい、それを借りるという形で乗り切りました。

高知空港へは、当時親しくさせていただいていた花屋「花ゆう」さんのワゴン車で出迎えに行きました。

はじめて会うPERSONZのメンバーの印象は、渡辺貢は東京の古着屋の店員。藤田勉はロングヘアの美少年で竹宮恵子の漫画に登場しそう。本田毅は今よりもっと幼くてかわいい男の子という感じでした。
もっとも、こちらも当時は若く26歳。さらにうちのお手伝いスタッフも16〜18歳という低年齢。
その日の打ち上げに向かう道すがら、JILLさんが「毅!ここのスタッフの中なら子どもに見えないね」と笑っていました。

「どうぞ、こちらにお乗り下さい」とワゴン車を開けたのですが、何とJILLさん「私は前に乗る」と助手席に乗り込んできました。
マネージャーの山村さんは「JILLはいつもそうなんだよね」と。

私はチャンスだと思い、この期待大の新人バンドのリーダー?に自分がいかにPERSONZにほれ込んでいるか! そしてCKCがROCKが好きな連中が集まって運営しているグループなんだ! と熱く語りました。

JILLさんはこちらの熱い思いを受け止めてくれました。
こちらの想いがPERSONZに届いた至福の時間でした。

3++ PERSONZ四国初ライブ!

ディスコパンダは横に長くステージの奥行きがないため、音の反響が激しくPAのバランスがとりづらくリハーサルは長引きました。
それでも、メンバー本人たちも私たちも、この超大物バンドの四国初ライブがどんなになるのか?期待と緊張でドキドキしていました。

何しろ今ほど打ち込みでサポートされていない時代です。レコードと実際のライブにとんでもない!差があるバンドも珍しくありません。レコードで聴いたJILLのあの伸びのあるハイトーンヴォイスは本物なのか? あの素晴しい演奏はどこまで再現されるのだろうか?

たぶん、メンバーの方でも請われて来たとはいえ自主制作盤を1枚出しただけの新人。はじめての土地でどれだけのお客さんが入るのか? どんなリアクションなのか? 不安だったと思います。

ライブは80人弱の動員でした。これは全くの新人としては成功でしょう。
オープニングアクトのBOOWYのコピーバンドも自分たちの出番が終わると客席に廻って、盛り上がってくれています。

PERSONZのライブは今と違って何と!!!「Dear Friends」が中盤にあるセットリストでした。
今では確実にアンコールが定位置となっているこの名曲が5曲目くらいに登場するのです。
ちなみに「Dear Friends」はデヴュー前から頭脳警察のパンタさんにも「良い曲だね」と言ってもらえたという、誰もが認める名曲です。

もしかしてメンバーにしてみると、自分たちをあまり知らないキッズに向けて、ライブから逃さないつもりで勝負曲を早めに持ってきたのかもしれません。

しかーし、ライブが終わると激しい「アンコール!」の声。しかも「Let's GO!」を演ってくれ〜という声もちらほら。

(注)後年、JILLさんのソロアルバムに入るあの「Let's GO!」です。

実はPERSONZを広めるために、事務所の許可をとって新宿ロフトでのライブテープを配布していたのです。その1曲目が「Let's GO!」だったのです。

この頃、CKCでは高校のお昼休みに「CKCのおすすめバンド」の新曲を流してもらうとかも、かなり広範囲に繰り広げていました。
それらの中で、もっともがつん!ときたのがPERSONZでした。

予想外のアンコールの声に(それもなれあいでなく本当に望まれて)、メンバーが大喜びで「Let's GO!」で再登場!
本田・渡辺コンビニコニコしながら観客の方にせりだしていくと、観客の方もぐわーと寄ってくる。
四国初ライブは大成功に終わるのでした。

一転。
翌日の松山ライブは、昨年の come alive 2003 でその呪縛から放たれるまでの、長い松山苦難のはじまりとなります。
ディスコのスペシャルイベントとして東京から生バンドをという安直な発想からのライブは、従業員のノルマによる充分な動員があったにもかかわらず、反応は鈍く、ただ無駄に時間が過ぎてゆくだけでした。

それでもマネージャーの山村さんは、「気にしなくていいよ。こうして呼んでもらえなかったら四国なんて後3年はかかると思っていたのに、昨日の高知は素晴しかったし。次のツアーでもよろしく」と言ってくれました。

高知ではPERSONZというかっこいいバンドの噂が広がり始めました。
PERSONZを教えてくれた志水くん。志水くんの親友でサザンデスカルトのコピーバンドをしている宗孝くん。ふたりはディスコパンダでのライブにしびれまくっていて、「しゃーちょー。次のパーソンズのライブには俺らも前座で出してよ。チケットがんがん売るき。絶対出してよー」。
彼らの読みでは PERSONZはすぐにオープニングアクトなどで出れないようなメジャーバンドになる。その時彼らは「俺たちPERSONZの前座演ったんだぜ」と自慢する。上手くゆけば上京してプロを目指すときの売り文句に出来る。ということなのだ。

2度目の高知ライブは翌年87年4月。2枚目のミニアルバム「POWER-PASSION」の発売に合わせたツアー。

前回のライブの評判と彼ら2バンドの努力に助けられ、2度目の高知は早くも!高知県民文化ホール(グリーン) で実施した。
高知県民文化ホール(グリーン) はキャパ500P。ステイタス的には東京でいうところの渋谷公会堂といったところ。そこで前座付きとは言えメジャーデヴュー前のバンドがライブを行うのは前代未聞のことでした。
実際、CKC20年の歴史の中でもPERSONZ以外では実現していない。動員数は257人!

この時のことを後にメンバーが「大槻ケンジのオールナイトニッポン」に出演した際話すと、大槻は「つまり高知へ行ったらいきなり氷室京介さまだったのが、松山へ行ったら西条秀樹だったということすかー」と茶化していた。

PERSONZのキレのある素晴しいライブと、まだ知られていない大物バンドの発見に観客は大満足となった。

それくらいPERSONZもCKCも若くて元気一杯でした。

4++ PERSONZメジャーデヴュー!

とうとうPERSONZのメジャーデビューが決定しました。但し、テイチクのBAIDISレーベルなんて聞いたことないような会社からです。

初め、PERSONZはメンバーの年齢が高いことを理由に、どこのレコード会社にも断られた経緯がありました。
今では笑い話のような話ですが、当時はROCK BANDとは言え芸能人のような見方をされていましたから、遅いデヴューは、そのままそのバンドの賞味期限が少ない、という解釈のもと、お金のかかる新人売り出しは行われないことが当たり前だったのです。
そこで、ARBオフィスは「仕方ないので自主制作盤で実績を作ってから逆にスカウトが来るのを待つ」という戦略をとっていました。

自主制作で出した「Romantic Revolution」「POWER PASSION」の流通は、当時最大のインディーズレーベル キャプテンレコード(「宝島」のレーベル。後に「バンドやろうぜ」につながる)からでした。これは判る。とんがりキッズに届けるにはこのレーベルから出すことが大切でしたから。

それにしても凄い自信というか先見の明と言うのでしょうか? ARBオフィスでは、流通はキャプテンレコードに任しましたが、レーベルはPERSONZのためにHEADS−Uレーベルという自社レーベルを作っていました。それは、PERSONZが売れた時に、誰かが勝手に旧作を「あのPERSONZの新人時代!」などと販売することを防ぐためだったそうです。もう、事務所も完全に「売れる!」と信じているんですよ。

勿論それは正しかったわけですが、それにしても何故にテイチク? 演歌の? 答えは「大きなところへ入って5番目になるよりも、小さなところの1番を選んだ」とのことでした。う〜ん。この選択は正しいのだろうか?

ちなみにBAIDISレーベルの発足時の所属アーティストは、PERSONZの他は、SION、KATES ブルートニック(井上富雄・木原龍太郎をメインとしたバンドでオリジナルラブやスカパラの流れにつながる。売れなかったのが悔しい! すごく良いバンドでした)、コレクターズ、途中から戸川純&ヤプーズというメンツでした。

ともかく、私としては、東京での動きとかぜーんぜん関係なく、任せてもらった四国内でがんがん売ってやろうと燃えまくっていました。

当然、会場は高知県民文化ホール(グリーン)! しかもワンマン!
86年10月。PERSONZの四国初上陸から1年を待たずしてホールでワンマン。ごめん、ECHOES早くも追いついてしまいました(但し高知限定)。ごめん、GO−BANGS勝負にならないとこまできてます(高知限定ですが)。とにかくここからPERSONZの快進撃がスタートするのですが(もちろん全国区で)、この時期の四国の突出ぶりはもの凄いものがあったようでした。

実際、渡辺・藤田コンビとの同級生にして、先にインディーズで売れたリアクションの斉藤は、当時、高松クラブハウス(現MTRを主宰されている網さんが店長でした)というライブハウスに出演した際、東京では自分が勝ってるつもりだったのに、四国で見るPERSONZのポスターに掲載されている会場のクラスに愕然として「あいつら、いつの間にこんなに売れてたの!」と驚いていました。

さて、2度目のホールライブ。動員は310人!
1回目の県民文化でのライブは、ライブハウスから突然不慣れな広いステージに投げ出され動きの小ささが気になったPERSONZでしたが、今回は少し良くなっていました。もちろん、この時点では全国ツアーの中で唯一高知だけがホールだったわけですから、ステージアクションがさまになってくるのは「WONDERFUL MEMORIES」ツアーまで待たなくてはなりません。

それでも、イキオイのあるバンドのステージというものは何かしらぐいぐい引き込まれるものです。これは今を否定するわけではありませんが、私はこの夜の「Midnight Teenage」のキレの良さは最高だったと思います。

そうそう、このツアーからPAの方も専属オペレーターが付きます。四元さんと言って「いちご白書」にでも出てきそうな学生ぽい方でした。彼にはこっそりツアースタッフの心情とかも教えてもらう関係になります。やはり専属オペレーターが付くと必要に応じてエフェクトもかけてもらえますから、よりレコードに近い完成度の高い音を提供できるわけですよね。彼のオーダーによりPAシステムもより高度なものが必要となり、高知の音響会社では対応出来なくなりました。そして徳島のうさぎやという会社に依頼しました。お互い持ちつ持たれつは世の常ではありますが、より良いものを作ろうとした時、片方の成長が著しく片方を追い抜いてしまった時は、一端別れることも仕方ないと思います。
しかし、私のこの考え方は田舎の高知では浮いていたようで、この件で私は多くの方から非難を受けます。

バンドは観客が多くなり、ホールのランクが上がるたびにスタッフが増えてゆくものです。そうでなくては広い会場で狭い会場と同じ感動を与えられなくなるのです。もっとも感動のタイプは変わってゆきますが・・・

すごいよ! PERSONZ。かっこいいよ。やったーという胸のすくようなライブをやってくれました。

コンサート終了後はロビーでのサイン会です。これはROOSTERZがしていたのを見た私が、事務所に強く要請してしてもらっていました。
とにかく、PERSONZは曲がいいのですから、なるだけ沢山の人に聴いてもらいたいわけです。それにはレコードを買ってもらうのが一番いいわけですから、レコード買ってくれたらメンバーがその場でサイン、というのをお願いしました。

大阪から立会いに来てましたテイチクの宣伝担当の方たちは「いや〜これはええなあ。このバンドはどこでもこれやってくれるのかな」と喜んでました。
今考えるとROCKぽくないことこの上ないのですが、メンバーが私を信頼してくれて応じてくれたのだと思います。ごめんよ。

(補足)この年、もう1つ超大物バンドがデビューしています。ブルーハーツ。CKCではこのPERSONZのライブに先立つこと半年前、87年5月にチャオホール(現・ルーマプラザ5F)で主催しています。こちらもまたPERSONZに負けずイキオイがありました。こちらは私の仕掛けなどなにも関係なく売れたと思います。それが証拠にCKCは評価されなかったようで次回のツアーから外されます。しかもDUKEさんが作られたTVスポットでは「ブルーハーツ四国初上陸!」とナレーションされていました。しかし、コンサート当日覗かせてもらったら、前説でDUKEさんの社員、梅木くんが出てきて注意事項を話した上で「今から高知では正しくは2度目のブルーハーツのライブがあります」と話してくれていました。

5++ レコーディングにお邪魔する

熱狂の高知ワンマンでのライブも終了して、PERSONZは凄い! という噂は小気味良いくらいのスピードで広がってゆきました。

当時、帯屋町にあった1番大きなレコード店、川村レコード店の1F店頭のビデオでは、常にPERSONZが流されていました。もちろん、こちらも偵察員?を放って常時流されているかをチェックしていました。流れていなかったりすると、次回に店舗に出向いた際に「お願い」をするわけです。

さて、この年の年末近くCKC岡本は東京へ「売り込み」に出かけます。あまりお金のないCKCにしてみると、やりくりしてのやっとの上京費用でした。それは今もですが・・

もちろん、一部のシーンでは四国に出来たこの新しいイベント会社は注目を集めていましたが、世間的には「噂は聞いてるけど知らない人」状態なわけです。私は不慣れな東京の道を迷いながらてくてくあるき続けました。

(注)この時の日記のようなものは会報の号外として製作。題名は「東京ROCKレポート」。これはこの後、主催した 有頂天 のKERAさんにたいへん面白がっていただいて、私が後年、たま のマネージャーをしていた期間、仲良く仕事させていただく関係を作ってくれた。

しかし、ARBオフィスを訪ねる時のみは、既に、PERSONZの全国初のホール公演の成功とARBの高知県民文化ホール(オレンジ) への復活、数年ぶりの松山公演の仕掛け人として、充分な遇され方をしました。

マネージャーの山村さんが「あさっては時間あるかな? PERSONZが山中湖のスタジオでレコーディングしているんだけど一緒に行こうよ」と誘ってくださいました。

(注)「RomanEsque-HeartAche」

まだ、この仕事を始めて間もない私をそんな場所に招待してくれるとは! 今から考えても、いかにPERSONZに信頼されていたかが良く判る光栄な思い出です。

(注)よく「ザ・ベストテン」とかで黒柳徹子さんとかが「今週の第5位、○○さんたちは山中湖のスタジオの方でレコーディング中です」とかやってましたが、あれは山中湖スタジオというものがあるわけでなく、山中湖周辺にレコーディング対応のスタジオが点在しており、単なる地名としての紹介。ちなみに交通費・宿泊費を考えると都内のレコーディングスタジオの方が安かったりする。しかし、都内のスタジオは稼働率が高く、あるバンドが昼間使った後に別のバンドが入るのは当然。従って、毎回、楽器のセッティングからはじめてチューニング・サウンドチェックをする手間がかかる。PERSONZはここにきて早くも快適なレコーディング環境が得られる立場に来ていた。ということです。

山村さんとは途中、カーショップでタイヤチェーンを買いました。ビデオによる取り付け方法の解説を2度見て、ふたりして山中湖へ。

道路からスタジオ兼ペンションに入る下りの道は、雪があまり踏まれてないせいもあって、ちょっとジェットコースターのような降り方でした。

入って行くとログハウス風の外観とは異なって、中はホテルのロビーのようでした。快適な空調と絨毯のウェイティングルーム、そしてガラスの向こうはレコーディングルームです。私は外の風景との落差、そしてその豪華さに驚きました。

ちょうど「Welcome To This Time」のレコーディングの最中でした。
本田毅のキーボードの様なギターの音色があまりにキーボードのような音色なのでそれを伝えると、JILLさんは「そうでしょう」と笑い。本田くん本人は「やったね」とうれしそう。どうやら、どれだけギターでキーボードのような音を出せるかの挑戦をしている模様。

ところで、別棟では ウィラード がRHをしていました。ウィラードとCKCは7月に公演中止というトラブルが発生していた。バンドと彼らの所属していた大手プロダクション、シンコーミュージックが対立。突然の退職により我々とのスケジュールは果たされないままとなり、チケットの払い戻しという不名誉な結果が残りました。
ちなみに、この時、シンコーミュージック側は「替わりに、これから絶対売れる良いバンドを入れますからどうでしょうか?」と申し出てきた。
しかし、そのバンドはGIRLS BANDだったので、女性ヴォーカルバンドとしては PERSONZ こそNO1! と決めていた私はその申し出を断ってしまう。えっ? なんてバンドを断ったのかって? それはプリンセスプリンセスでーす。
そんなわけで今、時間を越えてJILLさんと加奈子さんがユニット組んでるのが不思議です。
この時、ウィラード側と話し合いを持って、新しい事務所が決まってツアーをすることになったら連絡をもらうことなどを決めました。

いかにもペンションという感じの夕食が出されました。実は私はこの頃ペンションというものに泊まるのが初めてでした。そんなわけで夜はビジネスホテルで過ごすようなつもりでコンビニで週刊誌を買って来たりしていました。「週間モーニング」。本田毅に話すと「うそ! モーニング読みたかったんだよ。お借りしていいですかー」。そこで、私が取りに行こうとすると「いや、置き場所教えてくれたら取りに行かせますから」とローディーくんに指示する姿にはスターの貫禄が出ていました。

夜のはじまりのうちはその日録音した曲をカセットに落として、ビデオとオーディオセットのある部屋で何度も聴きかえしては笑って「う〜ん。今のはやはりどうしょうもなくしつこいよね」とか雑談ともミィーティングともつかぬ会話をしていました。私は不慣れな会話の中で、黙って座っていました。

やがて、時間とともに、何故かアースウィンド&ファイアーのビデオを流しながら音を消して、それに Welcome To を流して、その画面と音楽の偶然のシンクロを笑っていました。一番笑っていたのはドラムの藤田くんでした。何故はかは今も判りません。
それにしてもEW&Fのこの曲は、今も球場クラスのツアーをしているあのユニットがパクリ疑惑で注目されました。やはりベーシックなリズムの良さがあるのでしょうね。

リズムと言えば、ベースの渡辺貢はARBオフィスの藤井社長にサンジのベースについて尋ねていました。
「俺たち新潟にいたころ、ARBのサンジさんのベースってカッコイイて思っていたんですけど、実際どうだったんですか?」
藤井「上手いプレイヤーではなかったよ。なにしろシドヴィシャスに憧れて練習しないのもパンクだ、みたいになっていたからね。でも、不思議とライブでは、あの音が上手くはまってカッコよく聴こえたんだよね」

翌朝は快晴。クラブハウスに朝食に行く。
壁には荻野目ちゃんやラフィンノーズなどのここでのポラロイド写真が貼られている。ふーん。ここに彼らも来たんだー。そして、いつか誰かが「ここにPERSONZが来たんだ!」と言うのだろう。

レコーディング棟から外を見ると、富士山が見えていた。
山村さんが「岡本くん、はじめて見る富士山の感想はどう?」と尋ねた。私はアドリブが効かない人であります。いつも、事前に頭の中でシュミレーションしてから現場に赴きます。この時も、突然の話題に「はあ、讃岐富士より立派ですね」という何とも間抜けな返事をして全員に笑われます。

昼前にスタジオを後にする時、JILLさんは歌入れの最中でした。
ガラスの向こう側に手を振りました。録音の合間にミキシングルームから、真田さんが「岡本さん帰ります」とマイクで中のメンバーに伝えてくれました。JILLさんが手を振り返してくれました。

だから、もしかすると「Welcome To This Time」の歌声の一部はJILLさんが私に手を振りながら歌ってくれたものかも知れません。

(注)真田さんは当時のBAIDISレーベルのPERSONZ担当のディレクター。その後、東芝EMIの社長になります。私はそんなこと知らずに東芝に電話して普通に「真田さん。お願いします」と呼び出したことがあります。あるバンドをメジャーデヴィューさせようと画策して、渋谷クアトロのライブを見に来てもらおうとしました。でも親切でしたよ。懐かしそうに喜んでくれました。本人は来てくれませんでしたが、スカウト担当の方を寄こしてくれました。

6++ 涙のWelcome To This Time Tour

87年4月。レコーディングにお邪魔させてもらったミニアルバム「RomanEsque-Heart Ache」の発売に併せてのツアーが実施された。人気アーティストの場合、アルバム発売と同時にすぐツアーが始まるものなのだが、この頃のPERSONZは、高知での人気はさておき実際にはメジャーではフルアルバム1枚、そしてこの2月にでたミニアルバムが2枚目という状態。事務所側は慎重にファンに曲が馴染んでからツアーに出るよう考えてあえて2ヶ月、間隔を置いたのでした。

再び、松山市民会館(中ホール)。
マネージャー山村さんからは「当分、松山は辞めておきましょう」と反対されたのですが、私はPERSONZ四国制覇のため、とりあえず。高知からも近く、かつ何人かの協力者のいる松山を重点地区としていた。

(注)この頃は、まだMTR網さんは高松在住。愛媛での協力者はテレビ愛媛アナウンサーの土居氏、ROOSTEZマネージャーの石飛さんからROCK好きのTVマンがいると紹介された。そのラインから人脈を拡げた。香川はTV局も多く(当時で既に東京と全く同じ局数だった)タウン誌も多く、街も広く、その為、宣伝展開が難しかった。徳島は高知から片道4時間かかる上、街の規模は高知と同様なのだが、フェリーで渡れば大阪に近いため、少し興味がある人たちは非常に簡単に大阪まで行ってしまう、という難しさがあったからだ。

そんなわけで松山。ちなみにプリンセスプリンセスも四国は松山からスタートしてました。3〜4ヶ月に1回のペースできてましたね。すごかったな〜。

松山市民会館での動員は160人ほどでした。翌日の高知県民文化ホール(グリーン) がSOLD OUTしている状態にはほど遠いが、この時、私は「やった。ついに松山でもここまできた」と満足していました。

今から考えると、まるで採算度外視の多大な労力をかけて集まってもらったお客さんたち。本当にありがたかったです。
松山初公演のステージを与えてくれたダンステリアイースターの店長や私たちが松山でごく初期の段階から手伝ってくれていた西山さんたちが、CKCが力を入れている新人バンドPERSONZの松山での初ホール公演を観にきてくれました。

ステージでは「夏に出る私たちのー2枚目のアルバムに入る曲です」と「BE HAPPY」が唄われました。この曲はアルバム発売後は、レコードのアレンジを再現するためPERSONZにしては珍しく打ち込みのリズムが流されてそれに生演奏をかぶせてゆくのですが、このツアーではまだ、そうしたアレンジが固まってなかったため、あの冒頭のリズムも生のベースとドラムだけで始まるものでした。

私は正直、「DEAR FRIENDS」や「Hollywood Movie Star」などのキャッチーさはないなー、というのが感想でした。
それを察したのか作曲者の渡辺貢は低姿勢な言葉遣いで「あのー岡本さん。BE HAPPYってライブではまだいまいちなんですけど、レコーディングだとなかなか良い曲に仕上がりそうなんで、次のライブで、もう1回聴いてみてくださいね」と言われました。

充分な松山での再スタートだったと思います。

しかし、会場を出る時に再び嫌な出来事に遭遇します。
この夜、隣の大ホールでは、新進気鋭のお笑いコンビ、とんねるずのライブが行われていました。そして会場を出ようとする私の運転するワゴン車に出待ちをしていたファンが集まって来ました。そして、それを見た とんねるずのファンがワゴン車を取り囲んで車が動かせなくなりました。しかし、彼らのほとんどが「なんだーとんねるずじゃないじゃないか」と言って車から去って行きました。JILLさんと渡辺貢は気難しそうな顔をして黙りこくってます。藤田くんにいたっては「岡本さん〜。俺もう嫌だよ〜」と車のシートの下に隠れてしまいました。判るよ。その気持ち。

松山市民会館(中ホール) には出口は1箇所しかなく、私の取ったコースは避けられないものでした。アドリブの苦手な、気の効いたセリフの言えない私ですが、この時は自分の愛するバンドが侮辱を受けたことに心底腹を立てていました。
私は言いました。「気にすることないですよ。あんなお笑いなんて。すぐにPERSONZの方が大きな会場でライブするようなります。こっちの方が断然。本物でカッコイイですから」
私の言葉に気遣いの本田毅はニコニコしながら「今夜の岡本さん。熱いですね」と言ってくれました。全員大笑い。車の中はたちまち和やかなムードになりました。

さあ。翌日は高知です。この時はワゴン車が調達出来なかったので、普通乗用車2台での移動でした。今から考えるとレンタカーでも手配しろよ、とでも思うのですが、本当にこの頃は手造り、節約して頑張ろうという気持ちで一杯でした。今もその気持ちは持ってますが、少しはイベンター的な考え方もするようなったので、流石にこれはないですね。まあ。

車の話はさておき、当時のツアークラスとしては上等のホテル。JILLさんのお気に入りの松山サンルートホテルに泊まったにもかかわらず、朝からJILLさんは不機嫌です。何かあったのかな? と思うのですが、そこはJILLさんも大人ですから身内ではない私とかに対してはいつもと変わらぬ態度で接してくれます。ツアー中にはメンバー間で色々ありますから、余計な詮索を私の立場でしてもどうしようもありませんので、こちらもいつもと同じ態度で車を出発させました。

当時は四国にはまだ高速道路がありませんでしたから、R33号線を走っての高知入りです。1時間ほど走った後、飲み物を買うため車を停車させたのですが、なんと! 風邪をひいてしまい歌を唄える状態ではないのです。こちらが声をかけると無理してにこやかに返事してくれていただけでした。心配する私に対して渡辺貢はこう言いました。「仕方ないよ。自分が風邪をひいたんだから。どうしようもないよ。岡本さんが心配してくれなくてもいいんですよ」。これはたぶん私に気を遣っての言葉だと解釈しましたが、もしかするとツアー中の健康管理が出来てない自分たちのメンバーに厳しく伝えたのかもしれない? と考えました。

チケットはSOLD OUT。今まで頑張ってきて、遂にここまで来たのに。今夜はじめてPERSONZを見る人たちはレコードとの違いすぎるJILLの声をどう思うのだろう? そして、今までのファンも。私は暗い気持ちで高知までの道を運転しました。

JILLさんはステージに立ちました。がらがらの声で。そして泣いていました。上手く唄えないところは本田・渡辺がコーラスをとってサポートします。いや、これは今なら感動的なエピソードですけど、忘れないで下さい。この頃のPERSONZはまだまだ新人なんですから!

私の憂鬱はまだありました。私はPERSONZをより多くの人たちに知らしめるため地元CATVを説得して5カメラも入れての特別番組の撮影まで入れていたのです。この撮影にはかなりの費用がかかっています。今更、OAを中止してくれとはお願い出来ません。

ロビーではテイチク大阪営業所から立会いで来ている営業の今里さんがいました。彼は営業職には珍しい誠意のある表情で「でも、すごいですよ。普通なら公演中止にするところでしょう」と言いました。

判るよ。それは! でも私はイベンターなんです。あなたたちは全国区で判断して、四国のどこかでは風邪ひいてたいへんだったけど全体に良いツアーだったよ、と云うような会話で済むかも知れないけれど私にとっては今夜の高知ライブは特別な夜なのです。

少し話はズレますが、イベンターは基本的に受身の立場です。ですからそれだけにこちらが預けたステージ上で誠意のないライブをするようなバンドは許せません。

かつて広島出身でやや人気の出掛ったバンドをはじめて招聘した時、本番中、彼らはステージ上で「今日のこいつらはわかってないな」という態度をとったことがありました。当時のPERSONZ同様、一部の地域ではホール公演になり、これからの土地ではまだライブハウスという状況なのです。ツアーは前日までホールだったようでそれなりに馴染みのファンがいる状態が続いていました。しかしはじめての高知では観客もまだ反応が悪いのは仕方ありません。それを何とかして自分たちに引っぱってゆくのがプロのはず。それをこいつらはライブの途中で「高知の観客を捨てた」のです。
もちろん、私は彼らを許しませんでした。彼らが高知に来ることは2度とありませんでした。

もちろん、この夜のPERSONZはベストを尽くしてくれました。それは認めます。しかし、この夜の不出来を取り返すためには大ヒットをとばしてくれなければどうしようもないだろう。

そして実際この夜の観客たちは「PERSONZてレコードで聴くバンドでしょ。ライブバンドではないよね」という評判を撒き散らしてくれました。悔しい。


では、次回! いよいよ高松・土佐清水にエリアを拡げてのCAN'T STOP THE LOVE TOUR 編!
イキオイに乗るPERSONZのおまぬけで楽しいエピソード満載をお楽しみに!